「吾輩は猫である」に見る近代社会の「飾り」
ところが近代になって身分制度が廃止されて社会がフラットになった時から、社会はダイナミック(動的)なのもに変質します。身分制度がないということは、自分の存在感を示すために自分を大きく見せる、飾ることが重要になってきます。
同時に競争意識も生まれてきます。福澤諭吉は「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」と平等主義を謳いましたが、同時に学問の大切さを説くわけです。つまり身分に関係なく学問を修めたものが上に立って国や社会を引っ張っていく。
これを言い換えると、身分ではなく学問によって優劣をつけるということなので、義務教育のもとで
全国民を巻き込んでの学問での競争がここから始まった。福澤諭吉の言葉は、学歴社会や偏差値社会といった競争社会の大元だともいえるわけです。
つまり社会がフラット化する、自由になるということは、それだけ競争原理がはびこることに他なりません。そんな封建社会から近代社会へと移り変わる際の、人間の自我の不安や孤独を小説という形で描いたものが夏目漱石でした。(人に強くなる極意(青春出版社)を読んで 佐藤優著)
独立自尊
独立自尊とは、自らが自らを支配し、人に頼らざるをいう。
つまり、自分で考えて、自分で判断し、自分の責任において決定できる。自分で動ける。
そうやって一人ひとりが独立していなくて、本当の日本の独立はできない。
欧米列強に太刀打ちするようになるためには、国家に仕える奴隷型国民を大量につくるのではなく、一人ひとりが独立自尊でなければならない。
しかし、学歴が関係ない職業もあります、技術が必要ですが、美容師さん高給をとっているひとがいますし、フリーのエンジニアさん、また、士業も学歴とは関係ありません、障がい者でもなれます。少しその分野の法律関係の勉強をしなければいけませんが、
まったくの学歴社会ではないかもしれませんが、
ケインズ理論による経済政策には、ハーベイロードの前提とかいいますが、公正無私な知的エリートが、私情にとらわれずに政策を実行することが前提として必要であるということのように、その国での中心的な地位には学歴社会で勝ち残った人が位置していくのかな。
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