日本の難題をかたづけよう
経済、政治、教育、社会保障、エネルギー
安田 洋祐・菅原 琢・井出 草平・大野 更紗・古屋 将太・荻上 チキ
この本を読んで気になったことをあげる。アダムスミス(「見えざる手」とは、アダム・スミスが自身の著作で用いた言葉(概念)です。 具体的には、市場経済においてそれぞれが自己利益を追求すれば、見えざる手に導かれて社会全体で適切な資源配分をできるため、社会の繁栄と調和につながるという考え方を指します。)は間違っていた!?囚人のジレンマから導かれるさらに重要な含意は、たとえ個人が合理的に最適戦略をとったとしても、結果として社会全体の利益が最大になるわけではない、という教訓です。伝統的な経済学では、(完全競争)市場において「各々の経済主体が合理的に意思決定を行うと、結果的に効率的な配分が達成できる」という命題が導かれていました。ところが、ひとたび理想的な市場環境を離れて、囚人のジレンマ(2人の囚人(プレーヤー)が別々の部屋で尋問され次のような条件を与えられる。 双方が協力し合って黙秘すると刑は軽くなるが、個々が自分の刑を軽くしようとして自白を選ぶことで逆に刑が重くなってしまう矛盾が生じることから囚人のジレンマといわれる。)のような非常に単純なゲームを分析するだけで、個人の最適行動と社会全体の最適性が一致しないことがわかります。これはある意味、自由放任と対極をなす発見といえるでしょう。さらに現実には、各人が合理的に行動するために、かえって全体の効率性が下がるという例も多々あります。
レッセフェール(なすに任せよ)のままではまずい場合がある、ということを理論的にきちんと明らかにした点に、ゲーム理論(双方がWin-Winな状態を手にする状況を数学的に導き出すアプローチのことを言う。)やナッシュ均衡(ナッシュ均衡のよい例として囚人のジレンマが挙げられる。 囚人のジレンマとは個人の最適化を図ろうとした選択が、結果として全体の最適選択とはならないというゲーム理論のモデルである。 例えば、同一の事件で逮捕された2人の囚人が、互いに意思疎通をできない牢獄にいるとする。 そこで2人に対し、個別に提案を出される。)の重要な意味があります。
私として、レッセフェールにより近い形で物事をすすめていきたいと考えます。ですので、法律が邪魔になるときもあると思いますし、規則、行政が邪魔になる時もあると思います。
このことでうまく調節されているのかなと思いますが。
アメリカでは、そのためにすぐに法律をかえるともよく聞きます。日本でも法律を変える時もあるでしょう。自分の判断、ですべても物事を決められる方が、なんとなく充実感や達成感、すっきり感が得られるように感じます。最低限の、法律、規則は集団生活では必要ですが、どうおもいますか
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